1993年日本ダービー:BNW三強と“職人”柴田政人の涙の戴冠劇
これまで日本の競馬では、数々の名馬とそのライバルたちの戦いによる歴史が多く刻まれてきました。
その戦いは、2頭の一騎打ちもあれば、3頭三つ巴の戦いもあります。
そんな3頭が激突し合った戦いと聞けば、古くは1976年のクラシック戦線を大いに盛り上げたトウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスの3頭を思い出される方も多いのではないでしょうか。
なお、この3頭が戦った時代は、それぞれの頭文字を取って”TTG時代”と呼ばれており、今もなお日本競馬史に燦然と残る伝説として語り継がれています。
そして、この3頭に負けないくらいクラシック戦線が大いに盛り上がった時代がありました。
それは、1993年のビワハヤヒデ、ナリタタイシン、ウイニングチケットの3頭三つ巴となった通称”BNW時代”です。
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特にこの年の日本ダービー(G1)での劇的な幕切れには、多くの競馬ファンが涙するほどの出来事となったのです。
そこで今回は、その1993年の日本ダービーを中心に”BNW時代”の激闘を振り返っていきたいと思います。
まずは、BNW時代と語られる3頭の競走馬を順に紹介していきます。
1頭目は、史上5頭目の三冠馬ナリタブライアンの半兄にあたるビワハヤヒデです。
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母のパシフィカスは、シャルードの仔を受胎した状態で日本に輸入されました。その仔こそが、のちのビワハヤヒデだったのです。
芦毛で丈夫な馬体だったビワハヤヒデは、1992年9月のデビュー戦から無傷の3連勝でデイリー杯3歳ステークス(G2)を制し、暮れの朝日杯3歳ステークス(G1)では、単勝1.3倍の1番人気に支持されます。
しかし、ここではエルウェーウィンにハナ差で2着に惜敗しました。
年が明け、3歳初戦となった共同通信杯4歳ステークス(G3)でも単勝1.3倍の圧倒的支持を受けましたが、ここでもマイネルリマークの2着と敗れてしまいます。
この連敗を受けた陣営は、次走の若葉ステークス(OP)から鞍上を岸滋彦騎手から岡部幸雄騎手に変更し、必勝態勢で臨みます。
すると、レースでは2着のケントニーオーに2馬身差で勝利し、皐月賞(G1)へと駒を進めました。
しかし、皐月賞(G1)ではまたしても2着と絶大な安定感を誇るもG1レースで勝ち切れない状況下が続きます。
そして、6戦4勝2着2回の成績を以て「今度こそは!」との思いを持ち、日本ダービーで初の栄冠を目指すことになるのです。
G1レースで2回連続2着だったビワハヤヒデを皐月賞で沈めたのがナリタタイシンです。
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ナリタタイシンは名牝ダリアの血を受け継ぎ、現役時代にはフランスとアメリカで走り、ハリウッド招待ハンデ(米G1)やサンルイレイステークス(米G1)などを勝利したリヴリアを父に持つ良血馬として早くから期待されていました。
デビューから2戦目で勝ち上がると、そのあとは6着、2着、2着となかなか勝ち切れず、5戦1勝の目立たない成績で暮れのラジオたんぱ杯3歳ステークス(G3)に出走します。
ところが、ここで5番人気ながらも重賞初制覇を成し遂げました。
そんなナリタタイシンは、最後方からの追い込みが持ち味で末脚が切れる競走馬でした。
ちなみに競馬で末脚の切れ味を「ナタの切れ味」や「カミソリの切れ味」といったように表現することがあります。
これは、差し・追込馬が最後の直線で繰り出す末脚を表し、ナタで撫斬りするような力強いイメージとカミソリのようにスパッと切り裂くようなイメージから、そのように表現されるようになったものだと考えられます。
そして、ナリタタイシンの末脚は、カミソリの切れ味と表現されました。
なお、ナタの切れ味と評される代表的な競走馬は、戦後初の三冠馬に輝いたシンザンが有名ですね。
そんなカミソリの切れ味が遺憾なく発揮されたのが、まさに皐月賞であり、この世代で唯一三冠馬の資格を持ったナリタタイシン。
こうして、広い東京競馬場では、さらに切れ味が増すだろうと予想された日本ダービーに向かったのです。
最後の1頭ウイニングチケットは、父トニービン、母パワフルレディ、その父マルゼンスキーという血統で、栗東の名門・伊藤雄二厩舎に入厩しました。
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1992年9月のデビュー戦こそ5着でしたが、続く2戦目に勝ち上がると、葉牡丹賞(1勝クラス)、ホープフルステークス(当時はOP)、弥生賞(G2)と一気に3連勝。
5戦4勝で迎えた皐月賞では、ビワハヤヒデを抑え1番人気に支持されるほど、この世代において、クラシック候補筆頭という存在となっていました。
しかし、皐月賞では最後の直線で伸びを欠いて4着に敗れます。
ただ、次走の日本ダービーで競馬ファンは、鞍上の柴田政人騎手にダービーを勝たせてあげたいとの期待からか、皐月賞馬ナリタタイシン、連対率100%の超安定感誇るビワハヤヒデを抑え、再び1番人気に支持しました。
こうして、1993年の世代頂点をかけた日本ダービーは、この3頭が中心となり、最高の舞台に相応しい最高のレースとなるのです。
曇り空の中、良馬場で行われた第60回の日本ダービー。
大観衆が見守る中ゲートが開かれると、2番人気のビワハヤヒデが当時のトップジョッキーだった岡部騎手とともに6.7番手あたりの好位に位置します。
それを背後から見るようにして、ウイニングチケットと柴田騎手は中団のインコースで折り合いを付けました。
そして、皐月賞馬ナリタタイシンと若き天才・武豊騎手は、定位置ともいうべき最後方から虎視眈々とレースを進めます。
レースは1,000メートルの通過タイムが1分ちょうどと平均ペースのまま、隊列に大きな変化もなく、馬群は一団で最終コーナーを迎えました。
有力馬が比較的馬場の良い外側に進路を取っていく中、ウイニングチケットと柴田騎手は、まだインコースでジッと我慢し、内側がパッと開けた瞬間、直線を待たずして柴田騎手の仕掛けに応じたウイニングチケットが進出を開始します。
そこにウイニングチケットよりもさらに内側へ切り込んだビワハヤヒデと大外から一気に追い込んでくるナリタタイシン。
しかし、先に抜け出したウイニングチケットは、皐月賞とは異なり最後まで驚異的な粘り腰を発揮。
それをビワハヤヒデと岡部幸雄騎手が馬体を併せるようにして猛追します。
実は、岡部騎手と柴田騎手は同期であり、岡部騎手は約10前にシンボリルドルフで日本ダービーを制していますが、柴田騎手に関しては、これがダービー19回目の挑戦でした。
柴田騎手は、この時、デビュー26年目、通算1,700勝のベテランジョッキーで数々のタイトルを獲得するもダービーだけは手にしていませんでした。
”引退”という2文字が先に見えている中でダービージョッキーという称号を得られるチャンスはこれが最後になるかも知れない場面で、柴田騎手はウイニングチケットに対して懸命に鞭を入れます。
内にビワハヤヒデ、外にナリタタイシンが、中のウイニングチケットへ襲いかかる中、ここでウイニングチケットは一世一代の豪脚をみせます。
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それは、まさに「柴田騎手をダービージョッキーにするため」といわんばかりのもの凄い脚色でライバル2頭を振り切り、先頭でゴール板を駆け抜けました。
その瞬間、場内からは、19度目の挑戦で悲願のダービー制覇を成し遂げた柴田騎手を称える「マサトコール」が響き渡ります。
そして、勝利騎手インタビューで柴田騎手は「第60回の日本ダービーを勝った柴田政人ですと世界に言いたい」とその胸の内を語ったことで、多くの競馬ファンが涙したことは言うまでもありません。
今回は、1993年の日本ダービー 関東の名手を男にした”BNW時代”の激闘を振り返る記事をお届けしました。
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競馬において「三強対決」といわれるライバル関係において、クラシック三冠レースを1つずつ分け合うことは意外と稀なことです。
だからこそ、1993年のクラシック三強対決は今でも語り継がれているのだと思います。
そして、今回、取り上げた日本ダービーの激闘においては、関東の名手だった柴田騎手が念願のダービージョッキーになったレースとしても永遠に語られることでしょう。