983勝の父が届かなかった日本ダービーを息子は3度勝った、福永洋一と福永祐一の二代
また、肖像権・パブリシティ権に配慮し、特定の人物に類似させるための学習データ使用やプロンプト調整等はおこなっておりません。
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1979年3月4日、阪神競馬場の毎日杯。マリージョーイに騎乗していた福永洋一が落馬しました。30歳。1968年のデビューから11年が過ぎたところで、その年も勝ち星の首位を走っている最中のことです。
鞍に戻ることは、二度とありませんでした。
残った数字は983勝。1000勝まで、あと17。日本ダービーの勝ち鞍はゼロでした。
それから17年おいて、息子の福永祐一が中京の2レース目でゲートに入ります。
福永洋一は1948年12月18日生まれ。騎手免許を受けたのは1968年です。同期に岡部幸雄と柴田政人がいて、この二人は前年の1967年にデビューしています。洋一が1年遅れたのは騎手試験に一度落ちたためで、当時はそれほど珍しいことでもなかったようです。
デビューイヤーは14勝。3年目の1970年に86勝を挙げて、その年の最多勝利騎手になります。ここから1978年まで、首位を9年続けました。
9年連続に並んだのは、いまのところ武豊の1992年から2000年だけです。
ついでに書いておくと、JRAは公式に「リーディングジョッキー」という言い方をしません。「年間最多勝利騎手」です。競馬の殿堂に洋一を迎えたときの顕彰理由も、その言葉づかいでした。「騎手として通算983勝をあげたほか、9年連続して年間最多勝を記録、さらに、3歳クラシック競走ならびに天皇賞の各競走において通算で6勝をあげるなど顕著な成績を収め、中央競馬の発展に多大な貢献があった。」
9年という数字にいま見ても現実味がないのは、その間ずっと関西の一人が全国の首位に居座り続けたという話だからです。
勝ち鞍の中身を1年ぶんだけ覗くと、妙なものが出てきます。1976年の秋、洋一はトウショウボーイに3度乗りました。10月3日の神戸新聞杯で1着、10月24日の京都新聞杯で1着、11月14日の菊花賞で3着。
このうち京都新聞杯が、京都ではなく阪神で行われています。同じ1976年は皐月賞も動いていて、春の労使交渉がもつれた影響で1週間遅れ、中山ではなく東京で施行されました。開催の割り振りがあちこち入れ替わった年だったようです。
ただ、京都新聞杯が阪神になった理由そのものを書いた資料は、探しても出てきませんでした。京都競馬場は同じ年の11月に菊花賞をやっているので、改修で使えなかったという話でもありません。
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落馬の場面をどう書くかは、資料によって割れています。4コーナーとするものもあれば、最後の直線で前の馬の落馬に巻き込まれたとするものもある。
はっきりしているのは、洋一が鞍上に戻らなかったことです。騎手免許そのものは1981年まで残りますが、以後の騎乗記録はありません。
このとき息子の祐一は2歳でした。
1996年3月2日、中京競馬場。
その日の1レースに福永祐一の名前はありません。最初に手綱を取ったのが2レースのマルブツブレベストで、1番人気に応えて勝ちました。初騎乗が初勝利です。続く3レースのレイベストメントでも先頭に立ち、デビュー初日に2勝しています。
私が競馬をテレビで見るようになったのは1988年の芦毛対決で、当時は小学生でした。そのころ福永洋一という名前は、もう過去形でしか出てきません。事故から10年近く経っていたので当然なのですが、子供のこちらには「昔すごい人がいたらしい」以上の情報が入ってこなかった。だから1996年に息子がデビューしたときも、そこがどこに繋がっているのか分かっていませんでした。中京の2鞍のことは、ずっと後になって記録で知っています。
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通算1000勝と、日本ダービー。
1000勝は時間の問題でした。祐一は1996年から2023年までの28年で、着順のついた騎乗が2万14回、勝ち星は2721。年間の最多は136勝で、2013年と2020年に記録しています。
ダービーは事情が違います。年に1度、3歳馬にしか出走権がなく、乗る馬が決まらなければ挑戦の機会そのものが来ない。
祐一が東京優駿の鞍上に初めて座ったのは1998年、キングヘイローで14着でした。そこから毎年のように乗って、勝ったのは2018年のワグネリアン。19度目の東京優駿です。20年かかりました。
そのあとは早く、2020年にコントレイル、2021年にシャフリヤールで3勝になります。
優駿牝馬も3勝。2004年ダイワエルシエーロ、2005年シーザリオ、2007年ローブデコルテ。東京優駿と優駿牝馬はどちらも東京の芝2400mですから、この6勝は同じ直線に集まっています。
祐一が挙げたG1は45。ただし世に出ている数字は「JRA・G1で34勝」のほうをよく見ます。開催地で割ると、両方の意味がわかります。
※本記事のデータは編集部による独自集計です。
| 区分 | 勝数 | 内訳 |
|---|---|---|
| 中央(JRA) | 34 | 主なもの=東京優駿3勝・優駿牝馬3勝・阪神ジュベナイルフィリーズ3勝 |
| 地方交流(Jpn1) | 6 | JBCスプリント2002/南部杯2015・2022/帝王賞2017/川崎記念2018/かしわ記念2020 |
| 海外 | 5 | 香港マイル2001/クイーンエリザベス2世カップ2002・2003/アメリカンオークス2005/ドバイデューティフリー2014 |
| 合計 | 45 |
厄介なのが2018年のJBCクラシックです。この年は京都競馬場が舞台でした。中央の競馬場で行われた以上、34に数えられます。
1頭でいちばん稼いだのはコントレイルで、2019年のホープフルステークスから2021年のジャパンカップまで、2020年の三冠を挟んで5勝を単独で持っていきました。祐一の中央G1の7つに1つがこの馬から出ている計算になります。
1998年が673回、2000年が672回。あいだの1999年だけが408回です。
4月11日、プリモディーネで桜花賞を勝ってG1初制覇。その6日後の4月17日、中京で行われた小倉大賞典の返し馬で、マルカコマチから落ちました。背中を踏まれ、肋骨骨折と左腎臓の一部損傷。腎臓は摘出されています。
月別に見ると4月が29回で止まり、5月と6月がゼロ。7月が7回、8月が10回、9月から57回に戻ります。復帰は7月24日の新潟で、落馬からおよそ3か月でした。
この年のオークスとダービーには間に合っていません。父が届かなかったレースに、息子も最初の年から乗れませんでした。
なお1999年の小倉大賞典は中京競馬場で行われています。レース名と開催地が食い違うので、当時の記録を読むと毎回ここで引っかかります。
JRAが2023年2月7日に出した告知に、2月28日付で引退する調教師5名と騎手1名の名前があります。騎手の欄は1行で、「福永 祐一(栗東)」。
手綱を取った最後は、その3日前でした。2023年2月25日、サウジアラビアのキングアブドゥルアジーズ競馬場のリヤドダートスプリントに、リメイクで出て3着。
3月4日には阪神へ戻り、チューリップ賞の誘導馬に乗って本馬場入場を先導しています。
調教師免許の交付は2023年3月1日付。ところが厩舎を開いたのは翌2024年の3月6日です。
1日ではなく6日なのは、競馬施行規程の第50条第2項が効いているからでした。その年の2月末で引退する調教師の免許は、有効期間が3月5日まで延ばされます。前の代の免許が切れた翌日が、新しい厩舎の初日になる。
開業から2026年8月上旬までで、着順のついた出走が552、71勝、3着以内が205。勝率12.9%、複勝率37.1%。騎手時代の勝率は13.6%でした。
次の表は、父子それぞれの中央での記録をまとめたものです。
| 福永洋一 | 福永祐一 | |
|---|---|---|
| 騎手だった期間 | 1968年〜1979年 | 1996年〜2023年(28年) |
| 中央の通算 | 5,086戦 983勝 | 20,014戦 2,721勝 |
| 日本ダービー | 勝利なし | 3勝(2018・2020・2021年) |
| 騎手を離れた事情 | 1979年3月4日の落馬 | 2023年2月28日に引退し調教師へ |
2つの「◯戦」は出どころが違います。洋一の5,086戦はJRAが公表している通算成績、祐一の20,014戦は着順のついた騎乗を数えたものです。勝ち星は比べられますが、出走数の比率をそのまま突き合わせることはできません。
それでも騎乗の総数は祐一が4倍近くあり、これは父の現役が11年、息子が28年という差がそのまま出たものです。
Q. 福永洋一と福永祐一はどういう関係ですか?
父と息子です。父の洋一が1968年にデビューして中央で983勝、息子の祐一が1996年にデビューして2721勝を挙げました。洋一が1979年3月4日に落馬で騎手生命を絶たれたとき、祐一は2歳でした。祐一は2023年2月28日で騎手を引退し、2024年3月6日に栗東で厩舎を開いています。
Q. 福永洋一はリーディングジョッキーを何回取ったのですか?
9回です。1970年から1978年まで9年連続で年間最多勝利騎手になりました。9年連続は1992年から2000年の武豊と並ぶ最多タイ記録です。なおJRAの公式表記は「リーディングジョッキー」ではなく「年間最多勝利騎手」で、競馬の殿堂の顕彰理由にもその表現で記載されています。
Q. 福永洋一はなぜ引退したのですか?
1979年3月4日、阪神競馬場の毎日杯でマリージョーイに騎乗中に落馬したためです。この落馬で騎手として復帰できなくなり、30歳で事実上の引退となりました。通算983勝で、1000勝まで17勝、日本ダービーは未勝利のままでした。落馬がレースのどの地点で起きたかは資料によって記述が分かれています。
Q. 福永祐一は日本ダービーを何勝していますか?
3勝です。2018年ワグネリアン、2020年コントレイル、2021年シャフリヤールで勝っています。父の洋一は日本ダービーを勝てていないため、この3勝は父が届かなかったレースを息子が取った形になります。優駿牝馬も2004年・2005年・2007年の3勝で、東京の2400mで計6勝です。
Q. 福永祐一のG1は45勝ですか、34勝ですか?
34は中央だけの数字です。開催地で分けると中央(JRA)が34勝、地方交流のJpn1が6勝、海外が5勝で、全部足すと45勝になります。なお2018年のJBCクラシックは京都競馬場での開催だったため、中央の34に含まれています。
19度目でした。2018年の東京優駿をワグネリアンで勝ったのは、1998年にキングヘイローで14着に敗れてから20年後になります。
父が983勝を積んだ11年のあいだ、東京優駿の勝ち馬欄に福永洋一の名前が載ったことは一度もありません。