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関口房朗:日米ダービーを制した唯一の日本人オーナー

『競馬の祭典』と呼ばれるダービー


「ダービーを勝てたらもう騎手を辞めてもいいくらいの気持ちで臨みます」
とは柴田政人元騎手(元調教師)の言葉。

2008年の日本ダービーをウオッカで制覇した四位洋文元騎手(現調教師)も
「ダービージョッキーは最高です。もうやめてもいいぐらいです」
と語っています。

また
「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることよりも難しい」
とは、イギリスのチャーチル元首相が残した名言。

このように各国で行われるダービーはそれだけの価値や名誉があります。
そんなダービーを日本とアメリカの両国で優勝した日本人オーナーがいました。
それが、かつて『フサイチ』の冠名で日本競馬の一時代を築いた関口房朗氏です。

そこで今回は、日本人オーナーとして、初めてアメリカのケンタッキーダービーを制するなど、日本競馬の歴史に大きく名を残した関口氏の功績とフサイチの冠名を持った競走馬について紹介していきます。

生い立ち


関口房朗氏は、兵庫県尼崎市の高校を中退し個人経営で営んだ運送業を経て、関口工業技術の営業として勤務しました。

その後、1961年に関口工業技術の名古屋出張所の所長を任されるようになり、尼崎から名古屋に転居します。
これが関口氏の最初の転換点といわれています。

そして、名古屋に転居して2年後の1963年に『関西精器』を設立し、代表取締役社長に就任しますが、1973年に倒産。
その翌年には、当時では珍しい技術系の人材派遣会社『株式会社名古屋技術センター(現在は株式会社メイテック)』を設立します。

後に関口氏は、そのような事業を閃いたキッカケとして
「仕事帰りに他社にはまだ明かりがついている光景を見て、アウトソーシングを思いついた」
と語っています。

そんな関口氏は時代を先読みする発想力で、まだダイレクトメールといった言葉自体がない時代に、トヨタや三菱重工といった大手企業に直接手紙を出します。

その結果、次々と契約を実らせ、さらにはあのアメリカのボーイング社からの業務依頼でボーイング727-747の設計に参加するなど、先見の明を武器に事業を軌道に乗せていきました。

この頃はまだ馬主に縁も所縁もありませんでした。

フサイチの誕生


会社も軌道に乗り、資金繰りに余裕が出てきた関口氏。
そんな時、馬主になるキッカケとなったのが、自身が経営する会社の女性従業員から「実家の牧場にいる競走馬を買ってもらえませんか?」と懇願されたことです。
これが、関口氏の馬主としてのキャリアの始まりといわれています。

関口房朗のイメージ画像1

こうして、馬主生活をスタートさせた関口氏は、自身が所有する競走馬に『房朗が一番』を意味する『フサイチ』という冠名を付け1990年代の競馬界を席巻することになります。

しかし、最初の所有馬から走るほど競馬は甘くありませんでした。
そこで関口氏は競馬に嫌気がさし「もう馬主を辞めよう」と思っていた中、後にフサイチコンコルドを管理する小林稔調教師と出会い、馬主生活に転機が訪れます。

日本ダービー制覇


1993年に社台ファーム早来で誕生したバレークイーンの93は、小林調教師を通じて関口氏の所有馬となります。
この幼駒こそが後のフサイチコンコルドです。

フサイチコンコルドは将来を有望視された競走馬でしたが、体温が安定しない体質を持っており、思うように調教ができませんでした。
さらに肺炎を患ったことなどから、デビュー戦は4歳(現3歳)1月と当初の見立てよりも大幅に遅れてしまいます。
ただ、圧倒的1番人気に応えてデビュー戦を勝利すると、続くすみれステークスでも前年の朝日杯3歳ステークス(G1)で4着の実績を持つセイントリファールを相手に快勝。

これで2戦2勝とし、日本ダービーへの出走が見えたと思われましたが、すみれステークスを勝利しただけでは、日本ダービーに出走するにあたって賞金的に厳しい状況でした。
そこで陣営は、ダービートライアルであるプリンシパルステークスへの出走を試みます。

しかし、初の長距離輸送が影響したのか、東京競馬場に到着すると熱発を起こしてしまい、プリンシパルステークスの出走を回避しました。
こうして、日本ダービーへの出走に黄色信号が点灯した形となりましたが、ただ幸運なことに他の馬の出走回避が重なったことで、フサイチコンコルドは出走のボーダーラインをクリア。
日本ダービーへの出走権を手に入れます。

そんな中、更なる試練が待ち構えていました。日本ダービーに向け東京競馬場に輸送された後、再び熱発を発症したのです。
それでも小林稔調教師は「もしダービーじゃなかったら使わずに帰っていた」との決断で何とかフサイチコンコルドを回復させ、日本ダービーに送り出します。
こうして、日本ダービーの舞台に立った関口氏とフサイチコンコルド。
いくら無敗とはいえ、キャリア2戦、そして発熱。
これまでの過程が順調ではなかったことは明らかでした。

しかし、フサイチコンコルドはそんな陣営の思いを受けてか、悲願の日本ダービー初制覇を狙う武豊騎手騎乗の1番人気ダンスインザダークを外から強襲し、クビ差に退けて勝利しました。

キャリア2戦での日本ダービー制覇は戦後初の快挙となり、もちろん関口氏にとっても日本ダービー初制覇。
見事ダービーオーナーの勲章を手に入れたのです。
これは、関口氏が馬主生活を始めてからわずか10年のことで、さらに関口氏はフサイチコンコルドの単勝オッズ27.6倍に100万円分の単勝馬券を購入していたことで賞金とは別に大金を手に入れたというエピソードも残されています。

ケンタッキーダービー勝利


日本ダービーを優勝しこれ以上ない順風満帆に見えた馬主生活でしたが、その直後、株式会社メイテックの代表取締役を電撃的に解任されます。

そこで関口氏は、1997年に技術系アウトソーシングの新会社である『株式会社ベンチャーセーフネット(現在は株式会社VSN)』を東京で立ち上げ、会長に就任しました。
ただ、日本ダービー制覇で競馬の魅力に取り憑かれた関口氏は、日本国内ではもちろん海外のセリにも意欲的に参加することを開始します。

そして、1998年にアメリカのキーンランドセールにて、400万ドル(当時のレートで約5億5000万円)という超高額で1歳馬を落札しました。

これが後のフサイチペガサスです。
フサイチペガサスは、父に大種牡馬ミスタープロテクターを持ち、日本ではなくアメリカで走らせることになりました。

そんなフサイチペガサスは、デビューが遅れたものの3歳1月に初勝利を挙げるとその後、重賞レースを含む4連勝でケンタッキーダービーに参戦します。

伝統あるケンタッキーダービーでは、これまでの実績に加え、名手ケント・デザーモ騎手を背にしたことで1番人気に支持されました。
ケンタッキーダービーでは、1番人気は勝てないという不吉なデータがありました。
1980年から続いた1番人気の20連敗は、フサイチペガサスにとって暗雲が立ち込めているような状況でした。

しかし、そんなデータを吹き飛ばすように、レースでは見事勝利します。

関口房朗のイメージ画像2

こうして、日本人のみならずアジア人として初のケンタッキーダービーオーナーとなった関口氏。
まさにアメリカンドリームを体現したと言えるでしょう。

その後もアメリカ三冠レースに挑むも敗れはしましたが、ミスタープロスペクターの後継種牡馬としての評価は非常に高く、アイルランドの大牧場クールワンスタッドから84億円で買い取るとのオファーによって、関口氏は巨額のマネーを手にすることとなりました。

高額馬を次々と購入


この頃から”ミスター大盤振る舞い”との異名をとった関口氏は、日本のセレクトセールでも高額で幼駒を落札するようになり、併せて所有馬も多頭数になります。
中でも2003年のセレクトセールで落札したフサイチパンドラは、後にエリザベス女王杯を制覇し、繁殖入り後はアーモンドアイを輩出しています。
このように先見の明があったことは間違いありません。
その結果、今でも多くの競走馬たちの血にはフサイチの名が刻まれています。

そして、いつしか関口氏は高額馬を購入する大馬主として脚光を浴び、日本競馬の一時代を築くこととなりました。

関口房朗のイメージ画像3

しかし、その先見の明は2000年代に入ると”走る馬を見る眼”から”高額な馬を見る眼”に変わっていきます。
その中でも有名なのは、当時フジテレビの人気番組だった『ジャンクスポーツ』にちなんで命名されたフサイチジャンク
落札価格3億円で話題となりましたが、大きな活躍を見せることできず、最終的には地方競馬に転籍し、2009年に引退となりました。

また、関口氏の高額馬といえば、2004年のセレクトセールにて、父ダンスインザダーク、母エアグルーヴという超良血馬を4億9,000万円という当時国内最高額で落札したザサンデーフサイチも有名です。
そのザサンデーフサイチも全く走らず、結果的に稼いだ賞金は購入金額の1/7となる約7,000万円でした。

さらに同年のアメリカのケンタッキー州で行われたセリでも当時のレートで800万ドル(約9億円)となる大種牡馬ストームキャットの産駒も購入しており、ミスター大盤振る舞いとの名は瞬く間に知れ渡りました。

馬主活動の終焉


こうして、競馬界のみならず日本中でも一躍有名人となった関口氏は、次に馬主活動以外での活動として2001年に参議院選挙へ出馬します。
しかし、残念ながら落選。
それに懲りることなく2007年にも参議院選挙に挑戦しましたが、ここでも落選しました。

「競馬ファンが投票に行かなかったから」とコメントを残したことから、馬主活動にも陰りが見えてきます。
さらには、2007年自身で立ち上げた株式会社ベンチャーセーフネットの会長を退任した関口氏は、相談役に就任するも、わずか1年も経たずに退任します。

また、この時に自身が保有している株も全て手放してしまったことで、事実上実業家としての活動が終了。
同年9月には、とあるテレビ番組にて「高額馬の投資はもうやめる」とコメントし、その翌月には重賞馬を含む数頭の所有権を突如手放しています。

関口房朗のイメージ画像4

常連といわれたセレクトセールに参加することもなくなり、2010年3月には、史上最高額で落札したザサンデーフサイチが裁判所によって差し押さえられたことで、経済的にも苦境に陥っていることが浮き彫りになりました。

そして、2011年9月の時点でJRAでの所有馬はゼロとなり、2013年8月5日にフサイチクローバーが船橋競馬で現役引退したことを受けて馬主活動が完全に終了することとなりました。

まとめ


わずか10年の馬主生活で日本ダービーのオーナーとなり、その数年後にはアメリカのケンタッキーダービーのオーナーともなった関口房朗氏。
その名は、間違いなく日本競馬の歴史にいつまでも光り輝く栄光です。

さらには、先見の明を持って購入したフサイチコンコルドやフサイチパンドラなどを始めとする多くのフサイチの冠名を持つ名馬たちによって、今後もフサイチの名は競走馬に受け継がれていくことでしょう。

あんなにも華々しくギラギラとしていた関口氏が、何故あっけなく競馬の世界から姿を消してしまったのか。
当時の競馬ファンからするとあまりにも寂しく感じてしまうところはあります。
しかし、これもミスター大盤振る舞いという異名をとった関口氏らしい馬主活動の終焉だったのかも知れませんね。